これはひとりアドベントカレンダー「日記ぽい」13日目の記事です。

くどうれいん『日記の練習』表紙

昨日は阿久悠の日記本から「なんのために日記を書くのか」を眺めてみた。今日は、『日記の練習』(くどうれいん)の前書きにあたる「日記の練習をはじめます」を見てみる。

日記を書き続けるようになると、大事でないことから書き残されることが増えておもしろい。(中略)覚えていられることは書かなくていい、だって覚えているのだから!それよりも、いつもより鳶が低く飛んでいたとか、ささくれが薬指の両側にできてクワガタみたいでカッコいいとか、そういうくだらないことばかり書いている。(p.7)

阿久悠の「メモを集めてテーマを5つ拾い上げ、それに順位を付ける」ようなやり方と対極だ。すぐに続けて

日記を書きはじめると、生活の中で(あ、これは日記だ)と思う瞬間が来るようになる。(中略)おもしろいから書くのではない、書いているからどんどんおもしろいことが増えるのだ。

これは確かにそうだろう、こういうのを忘れていた。

カラーバスも連想するが、阿久悠の書いていたこれと似ているのが面白い。

長年日記をつけていると、確実に物事を観察する目が養われます。(「日記力 『日記』を書く生活のすすめ」 p.90)

書く姿勢には、私はちょっとびっくりした。

私は日記を書いていると得意げに言う割に、毎日欠かさず書こうと思ったことは1度もない。(中略)ブログサイトを構えて書くこともあれば、ワードを開いて書いたり、ツイッターの下書きにとにかく長文で下書き保存しておいたりしている。だから消えたりなくしたりもする。(pp7-8)

私は、日記に関する固定観念に縛られすぎていた。それでも「日記を書いている」と言えるんだ!

だから、「日記に挫折する」というのが私にはよくわからない。ノートがなくても、ブログがなくても、日記は死ぬまで勝手に続くものだと思っているからだ。(p.9)

日記のことばっかり頭の隅っこで考えて、昨日は阿久悠の気合の入った日記を垣間見たところだったので、これでだいぶ気持ちが楽になった。

書くと生活は面白くなるということをひとりでも多くの人にわかってほしい。(中略)わたしと同じように日記と向き合えば、日記に挫折することはきっともうない。(その代わり、残念ながら多分継続力も対して身につかない。)(p.10)

はっきりと効用が書かれている。生活はおもしろくなる、確かにそうかもしれない。なんでもいいから、続かなくてもいいから、どんな形式でも書いてみよう。

この2つを続けて読んだのは私にとっては良かった。

阿久悠とくどうれいんは日記に対して全く違う姿勢だけれども、結果的に同じことを書いているのが興味深かったので、引用しておく。

日記に対する新しい指南書になれば、と担当さんに言われたけれど、正直そうするつもりはあまりない。わたしのこれは日記。貴方のそれも日記。日記と言い張ることができればどんなものでも日記なのだから、誰かに教わる必要はない。けれどもしかすると「これが自分の日記だ」と言い張ることがいちばんむずかしいのかもしれない。だから、「日記の練習」を始めることにした。(pp.10-11)

どんなものでも日記だよ、というのは、阿久悠の「十人いれば十人の違う日記の世界ができるはずです。(「日記力 『日記』を書く生活のすすめ」 p.130)」と、表現は違うもののたどり着くところは同じだ。

日記の断片がたまに姿を変えて作品の一部になる事もある。(p.11)

これも「書くネタは、それこそ日記をひもとけばいくらでも出てくる。(「日記力 『日記』を書く生活のすすめ」p.75)」と同じ!