これはひとりアドベントカレンダー「日記ぽい」21日目の記事です。日記の雑誌出てた。

季刊日記創刊号表紙

日記屋月日から『季刊 日記』という本が出ていた。351ページ中、9ページから209ページまでが「25人の一週間」という日記だ。これだけでずっと読んでいられれそう。

210ページからの特集・「日記のたのしみ」をまず読んでみた。引用を載せていく。日記の目的や意味について、様々な視点から語られる。語り手は様々だけれども全体の基調には共通したものが感じられる。

「そこにあるもの・こと」(蟹の親子)

人が日記を付ける理由やモチベーションは、どこにあるのだろう。(p212)

日記を書く時にたいせつなのは、教訓を引き出すことであなく、ただそこにあったものを受け入れることだと思う。(p215)

「堆積、あるいは防御としての日記」(品田遊)

それは、こと日記に冠して言えば、そもそも「上達」という概念が当てはまらないのではないか、ということだ。(pp.217-218)

朝の散歩を長年続けている人がいるとする。その習慣によって脚力が向上したからといって、「彼の散歩は上達した」とは言わないだろう。(p218)

なるほど!これは考えたこともなかったが確かにそうだ。

つまり、日記は「上達」するものではなく、ただ「堆積」していくものなのだ。それは誰かを説得するための鋭い刃ではなく、盾と言えるほど頑丈なものでもないが、自分のかたちをした層を形成する。(p.222)

たとえ三日坊主でも、三日分の現在が堆積したこと自体に意味が生じているからだ。長く続くかどうかすら、じつは大した問題ではない。(p.222)

「あらゆる日記はおもしろい」(金川晋吾)

文章の内容がどうこうというだけではない、その人の「文体」にふれること、生々しいその人らしさにふれることのおもしろさが日記にはあります。(p.227)

日記を誰かに見せようとするときに、「なぜわざわざそんなことをするのか」という問いを(他人からも自分からも)突きつけられることがあると思います。でも、私にはこの問いをむしろ不自然なものとみなし、「せっかく書いたものがあるのになぜそれを誰にも見せないのか」と問いたい気持ちがあります。(pp.228-229)

【インタビュー】シットとシッポにきく(福尾匠 x 荘子it)

ぼくが日記を始めた理由と荘子くんがPodcastを始めた理由には似ている点があると思います。ひとことで言えば「自分の言葉を真に受けてもらえる場を持っておかないとやばい」という危機感です(福尾、pp232-233)

書いているときには自分の頭のなかにイメージが充満していて、それを言葉として書いているんだけれど、時間が経つと頭のなかにあったイメージのほうはなくなって、言葉だけが残っている。それは別の何かになってしまっているんだと思います。わざわざ文章で日記を書く意味って、そういうとことにあるのかなと思っています(福尾、p.237)

いつかの回で「人間の話ばかりしていると人間はダメになる」という話をしましたがそれと同じで、文章を書く行為がすべてコミュニケーションに回収されてしまうと息が詰まる。だからこそ、日記がある種ブームになっているのかなと思います。(福尾、p.243)

【対談】すぐ手元空始める、表現のヒント(植本一子xpha)

何か文章を書いてみたいとき、いちばん手軽で入り口になるのが日記だと思っています。それから、書くのに行き詰まったときは人の日記を読むと「こんな感じで書けばいいんだ」「別に大したこと描かなくていいんだ」って気楽になれるから、色々読んでみるのもおすすめしたいですね。日記って、エッセイみたいな文体もあれば、日報みたいにそっけないものもあって。自分に向いている文章の書き方が、そこで見えてくると思います。(pha, p.259)

窓を見る(ネルノダイスキ)

散歩中に「窓を見る」ことを窓のイラストつきで語っている。猫のいる窓、バキバキブラインドの窓、うっすら生活感の見える窓…。 こういうのは楽しいだろうし、そして日記的だ。

【レビュー】日記の目で読む(me and you/野村由芽、竹中万季)

日記視点のブックレビュー、と思いきや、既に存在していないWebサイトのレビューも含まれていた。「自分が書かなければおそらく誰かが書く日記」(p.270)