日記本を読む
これはひとりアドベントカレンダー「日記ぽい」5日目の記事です。日記がなんだかよく分からなくなったので日記本を読んでいます。

日記本というジャンルがある。最近、このジャンルが盛り上がっているような気がする。下北沢には日記本の書店である月日もあるし、私も日記本を何冊か持っている。これらを読めば日記とはなんなのかわかるのではないか。好きな部分を引用してみる。
『ちょっと踊ったり、すぐにかけだす』(古賀及子) 2021年1月6日
きのう、なにもしていないのにクーラーが動いていた。1日に2度もだ。何事かと震えあがったが、ちょっと調べてすぐ「リモコンの誤作動」の可能性があることがわかった。それで昨晩はリモコンの電池を抜いて寝た。今朝のエアコンは静かだった。
『富士日記』(武田百合子)昭和三十九年八月十五日
本栖湖へ泳ぎにいく。お盆に泳ぐと溺れ死にすると言うが、あまりの快晴なので、うっとりとして泳ぎに出かける。泳いでいる人は私と花子だけだ。
このふたつはどちらも起きたことを書いているだけだが、それなのに面白い。「今朝のエアコンは静かだった」「泳いでいる人は私と花子だけだ」も、単独では無味乾燥な事実だけの記述なのだが、この文脈の中では単なる事実ではない。そして「震えあがったが」「うっとりとして」というほんのちょっとした主観も効いている。
『読書の日記』(阿久津隆) 5月5日,p640
朝思いついたことがあってExcelをいじっていた。そうすると数字がはじき出された。昨日の夜も思いついたことがあってExcelをいじっていた。そうすると数字がはじき出された。
『読書の日記』は読んでいる本に関する記載が多いが、引用のように読書と関係ない記載も時々ある。そして日付は月と日が書かれているが年が不明だ。記載がものすごく長い日もあれば短い日もある。
『不確定日記』(オカヤイズミ)2020年 痛い頭 P.117
大人数でいて、入れる店を探して右往左往する、という夢を週に一度は見ているのではないか。その状態が好きなのか不安なのかわからない。私は積極的に店を探す方ではない。昨日は中庭に面した大きな窓のある喫茶店(吊ってあるドライフラワーの数が多い)の半円形のテーブルに沿って、十五人ならいけますかね、と言われた(もちろん夢で)。
オカヤさんの『不確定日記』は年は明示されているが、日記それぞれはタイトル(例えば「痛い頭」)が付いているものの日付はない。そして事実が淡々と書かれていることもあれば、夢の話のこともある。引用のように、夢における事実が(これもやはり淡々と)書かれていることもある。
『何かはあるけど、何も起きない』(針山) 2020年4月25日
晴れ。風が強い。朝、次女が部屋にきてベッドに潜り込んできた。「おかーさん起きてる?」と言うので「今起きたよ。お母さんね、昨日の夜に、お布団の中で遊ぼうと思ってSwitchもipadもkoboも持ってきたのに、すぐ寝ちゃって悲しい」って漏らしたら、「今から遊べばいいじゃない」と言ってくれる次女。いい考えだね。そのまま二人でしばらくお布団の中でゲームして遊ぶ。次女は肯定的でとても優しい。寄り添うのが得意なタイプ。
針山さんの日記はとても良い。引用はほぼ客観で、主観的な感情の描写が全くないのに針山さんのたのしさがちゃんと伝わってくる。