(これは、あなたの『好き』はどこから?アドベントカレンダーの11日目の記事です)

何をなぜ好きかというのが、年々わからなくなっている。

好きな映画はと聞かれれば、いまなら「マッドマックス 怒りのデス・ロード」と即答する。でも、それが映画のなかで一番好きなのか、なぜこの映画が好きなのか、と聞かれるとしどろもどろになるだろう。好きな小説はと聞かれると即答はできない。最近読んだ中では『この本を盗むものは』がよかった。少し前に読んだ『マーダーボット・ダイアリー』も好きな作品だ。いまは本棚を眺めながらこれをかいているが、もし近くに本棚がなければもっと悩むだろう。『叛逆航路』に始まる〈アンシラリー〉シリーズも好きだ(これは、「マーダーボット」からの連想で思い出した作品だ)。ここまで書いて、私は小説ならなんでも読むけれどSFに多少偏っているということをあらためて認識する。SFのなかではアシモフのロボットものは昔から好きで、一つ選ぶなら『鋼鉄都市』になるだろう。好きな作家となると、神林長平と夏目漱石がまず出てくる。好きな漫画なら『鉄コン筋クリート』。なにが好きかについてはこのように、いちおうは具体的な回答は出せることが多い。でも、なぜ、どこが、を問われると即答はできない。なぜ私はこの作品が良いと思ったのか? なぜSFが好きなのか?

好きなことを職業にすべきた、いやすべきではない、というポピュラーな議論がある。私はずっと職業プログラマとして働いている。小学校6年生のころにはプログラミングに興味があり、結局その延長線上で仕事している。つまり好きなことを職業にしたんだろうと思う。でも、プログラミングの何が好きなのか、と問われると難しい。一応理由らしきものはある。 じぶんで作ったものがすぐ動くのは楽しい。でも私は手先が不器用で、物理的な実体を伴うものを作り上げるのは苦手だ。 プログラミングは、手先が不器用でも自分の想像力と認識力がおよぶ限界まで複雑で精密なものが作れる。 というのが一応の理由だが、そんな理由で小学生の頃に始めたとは思えず、あとで考え出した理屈のような気がしてならない。

理由はともかくとして、いま好きなもののルーツは中学生から高校生にかけて得たものが多いようにおもう。プログラミングが本当に面白くなったのは中学生になってからだった。シャープのX1Cを買ってもらい、BASICで飽き足らずアセンブラに手を出した。当時は非公開のはずのシステムROMの情報も(なぜか)簡単に手に入ったので、そのレイヤでも遊んだ。Oh! MZ(途中からOh! Xに名称変更)という雑誌に乗っていたS-OSというOS(というよりはBIOS)と、その上で動くプログラミング言語で遊んだ。このあたりの経験がプログラマとしての私の基礎になっているのは間違いない。

読む小説がSFに偏るようになった理由の一つは、中学生の時に神林長平の『戦闘妖精・雪風』を読んだことだと思う。映画を意識的に観るようになったのは、高校生の時深夜テレビでやっていた「ミツバチのささやき」をたまたま観たのがきっかけだった。この映画は、それまで私がみていた映画と全く異なっていた。「映画的」とはなにか、というのを私に考えさせるようになったのはその差異だったのだと思う。「ミツバチのささやき」だって?「マッドマックス 怒りのデス・ロード」全然違うじゃねえか、と言われるかもしれないが、映画としての愉しみの基本は、この二本では同じだと私は思っている。

コミックは中高生の時にはあまり読んでおらず、今も好きな『鉄コン筋クリート』は大学生の時に連載初回を読んで知った。私は初見でこの漫画の「映画的」な部分が気に入ったのだったと記憶している。一話の冒頭で電柱にたつクロを右に配置した宝町のパノラマにまず目をひかれ、細かいカット割で場面をつないでいくリズムに飲み込まれた。私は映画の興味の延長で、この漫画に入っていったんだと思う。が、これも後で作り上げた模造記憶かもしれない。

最近になってから好きになったものも、じっくりたどれば中学生か高校生の頃にそのルーツが見つかるのかもしれない。それを確認してみるのもきっと面白いが、私はそういう根気に欠けている。目の前にあるもの、これから出会うものを楽しんで行こうぜ、という刹那的な姿勢で暮らしている。

とはいえ小説や漫画や映像作品については、そのどこをなぜ自分が良いとおもってなぜ好きだと感じるのかを、時間をとって確認し考える習慣をつけた方がよりよく楽しめるだろう。避けちゃダメだな、とこれを書いている今思っている。がんばります。