最近一部ではやっている(らしい)無人島問題について、米光さんがお怒りです。怒っているわけではないかな。
こどものもうそうblog | 無人島問題に操られると
問題については、リンク先をごらんください。
米光さんは

答えは、
みんなの頭が悪い。
で、いいと思います。
というか、出題した奴が悪い。

とこたえます。企業の教育で使われる場合について触れ、

こういった問題に答え続けていると、思考停止するクセがついてしまう。
「問いに対して答える」という強制が浸透すれば、(黒幕にとって)教育完了だ。

問いに盲目的にこたえようとするのでなく、その意義を問うのは重要だとわたしも思います。仕事でもよくあるよなー
しかしそうすると、たとえば小学校の算数でやる旅人算やら鶴亀算は、ばかばかしくてやってられないでしょう。旅人算には時速4kmで歩いて忘れ物をしたのでいきなり反対方向に時速5kmでひきかえす太郎さんと、忘れ物を届けに時速10kmではしるお兄さんとか出てきて楽しいですが、鶴亀算はそれどころじゃないです。

鶴と亀がいます。
頭の数は全部で6つ、足の数は全部で18本です。
さて、鶴は何羽、亀は何匹いるでしょう。

こたえは鶴3羽亀3匹なわけですが、鶴と亀の頭やら脚やらが区別できないって前提がそもそもいかがなものか。亀なんて頭かぞえるより甲羅かぞえるほうがはやくないか。というか、誰だ鶴亀算考えたやつ。
といえるわけですが、しかし鶴亀算の本質は、鶴と亀が容易に区別できるという話とは関係ないところにあるんです。本来は抽象的な数の問題なのですが、イメージしやすいように鶴と亀をもってきたところで負けです(この文脈では)。
鶴亀算の問いについて、その意義を問うとしたら「鶴と亀簡単に区別つくじゃん」ではなく、「このような計算に何の意義があるのか?」ということになります。それは、数学の枠組みの意義を問うことにつながります。簡単に扱える話じゃありません。
ではさきほどの無人島問題も、表面の問題がばかばかしいけれど、鶴亀算と同じように、本質はすこし上の抽象レベルにあるのでしょうか。そして、その枠組みの意義を問うべきなのでしょうか。
しばらく考えてみましたが、いまのところの結論は、「無人島問題は、表面的な表現もその本質もほぼ同じ抽象レベルにある」です。この問題は、「ひとの善悪」について問う問題だからです。鶴亀算とは違うわけです。おじいさんをおばあさんに入れ替えたり、男女を入れ替えたり、セクシュアリティを入れ替えたり、舞台を嵐の山荘にしたりすることで表面を変えることはできますが、問いが投げかけるものはほとんど変化しません。
...現実の問題に関する問いと、数学のような抽象概念を扱う問いについては、「意義を問う」必然性が違うのではないか、と思っていろいろ考えてみましたが、いまのところこの程度までしかまとまりません。