科学ってのはもともと限界がある道具ですが、しかしながらものすごく強力な道具です。

科学だけではできないことがあるんです。

だから科学はダメなんです、と続く議論をときどきみかけますが、あまりにも浅い論です。科学を営々と築き上げてきた先人に対してもうちょっと敬意を払っても損はしないと思います。
科学にできないことがあるのはあたりまえです。科学では扱えることと、扱えないことがあります。科学者だって科学が万能だと思っていません。科学が万能だ、ってのは科学的じゃない主張です。
「科学的な主張」はまず第一に、科学的に正当性を検証できなくてはいけません。具体的には「反証可能」でなくてはなりません。反証可能ってのは、もし十分な道具さえそろえば、間違っている場合にはそれをチェックできるカタチになっているという意味です。いま、その道具が技術的に用意できるかどうかは関係ありません。1億光年先にいるアリの種類が判別できる望遠鏡があれば、もしかすると反証できるかもしれない、なんてのでもいいのです。
「明るい表情をしているといいことがある」というのは科学的な主張ではありません。それが間違っているからではなく、「明るい表情」も「いいこと」も定義が不明確なので、反証することが不可能だからです。
「人間には決して関知できないが、この世のすべては神の支配のもとにある」というのも科学的な主張ではありません。それが間違っているからでなく、「人間には決して関知できない」神が存在することを反証する、つまり神が存在しないことを証明することが不可能だからです。
同じように、「人間には決して関知できない神は、存在しない」というのも科学的な主張ではありません。理由はおわかりですよね。
証明されていなくても「反証可能」であれば科学的な主張である資格がある、ということは、大事なポイントです。素朴な感覚では、科学的、イコール、証明されていること、とかんじるかもしれません。しかし、科学的であるためには「証明されていること」は不要なのです。
それどころか、「科学的に証明されている」という表現は、厳密には正しくありません。「まだ」反証されておらず、多くの科学者が「確からしい」と思っていることが、日常的には「科学的に証明されている」と表現されます。
使い古された例ですが、ニュートン力学はずっと正しいと思われていましたが、相対性理論の登場によって、近似的には正しいが、厳密には間違っているものであることがわかりました。
科学というのはそういうものなんです。
でも、科学もなめたものじゃありません。あなたの家にガスが届いて料理ができるのも、蛇口から日々水が出るのも、地下鉄が動くのも、携帯電話が通じるのも、あなたが今PCでこの文章を読んでいるのも、全部科学なしではなりたたなかったことです。
科学は道具にすぎませんが、先人の努力が積み重なってつくりあげられた、きわめて強力な道具です。多くの仮説が出され、検証され、しばらくは正しいと思われ、そして新たな仮説にとってかわられる、という歴史を繰り返して鍛えられてきた、過去に類のない強力な道具です。あ、『過去に類がない強力な道具です』というのは科学的な主張ではないことにご注意ください(笑)。
この強力な道具を甘くみるのは、愚かしいし、もったいないことだと思います。
科学的に疑わしいことは、おそらく疑わしいんです。それは、科学それ自体が先人の築いてきた努力のうえに、相当な確からしさで積み重なっているからであって、科学が「絶対的に正確」だからではありません。
科学は万能じゃないし、科学的に正しいとされていることも絶対じゃありません。だから科学よりもあなたの直感のほうが正しいかもしれませんが、その根拠として「科学だって万能じゃない」をあげるのは意味がありません。科学が万能じゃないのはあたりまえのことですから、根拠になりようがないんです。「ニュートン力学だって否定された、だからオレのほうが正しいかもしれない」というのもたいして意味がありません。ニュートン力学が否定されたのは、ニュートン力学では説明できない現象が観測できるようになり、そしてその現象をちゃんと説明できる別の仮説が出てきたからです。

とある方の日記に刺激されてかきましたが、その方に反論するものではありません。