小説のストラテジー佐藤亜紀『小説のストラテジー』を読みました。小説を、フィクションを、読み、書くことについての、考察です。わたしのような、ぼんやりと小説を読む人間には、刺激的な本でした。大事なことがたくさん書いてありました、たぶん。おそらく、わたしには、ここにかかれていることの半分くらいしか掬い取れていません。
この本の根っことなっている、と私が思った、考え方の引用をしておきます。

人に何か伝えようとするなら、わかりやすく箇条書きしてチラシにでも書いて配れば充分でしょう(それさえも文学であり得るとは思いますが)。わざわざ詩にしたり、小説に組み上げたりする必要はない物語を読み手の頭に流し込みたければ、粗筋をできるだけ短く纏めればいいのです。

尤もらしい教養主義が惨憺たる悪影響を及ぼすのは、むしろ鑑賞者にとってでしょう。
(略)
そこから出てくるのが、一つは、受動的な「消費者」として開き直り、作品に対する何の働きかけもなく安易に消費できる作品を丸呑みする姿勢、BGM的に当たり障りのない作品をシニカルな薄笑いを浮かべながら受け流す姿勢です。
(略)
もうひとつは、その作品を前にした時、知覚を通して得られる匂いや感触、微妙な均衡や逸脱を素通りして、ありもしない主義主張やあってもなくてもいいイデオロギーだけど問題とする姿勢です。作品を構成する知覚に対する刺激は無視され、その組織化は打ち捨てられ、結果として、作品は存在しない、ただ論が存在するだけだということになるでしょう。今日、多くの評論家によって採られている姿勢です。

受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したようなふりをすることを拒否する強さです。

そしてフィクションにおいての「表面」とは記述であり(当然、物語は表面ではない)、そしてフィクションを読むとは、その記述の「運動」を把握し、味わい、読み手が組み立てることだ、と書かれます。
ありもしない意味を見出すことはムダである、とか、意味を伝えるだけなら小説である必要がない、というレベルまでは私でも思っていたことです。
しかし、それは「いけない」「必要がない」という部分だけで、では小説とはなんであるか? ということについては、わたしには、これまでほとんどちゃんとした考えがありませんでした。この本で、小説がなんであるのか、という考えの核が、わたしの中にできたと思います。
もうひとつこの本を読んで思ったこと。理系的な議論の枠組み(というのは、もとをただせば西洋哲学の枠組みなんでしょうが)とは全く別の枠組みでも強い議論ができるんだなあ。