愛読している米光一成さんのブログにこんな記事がありました。
書きたいように書けない人の叫び2

「必要なら文章は書ける。書けないのは、その人にとってそれが必要じゃなかったから、もしくは、努力が足りないから、もしくは書きたいことを持ってないから、もしくはたくさんの文章を読んでないから」
そう考えている大人がいることを、ぼくは、ようやく実感した。
それは、ぼくにとって、少なからず、驚きというか、ショックというか、ある部分納得というか、ちょっと考え方を変えなければいけないなぁと思わされた体験だ。

言葉って不完全なものだから、言葉だけで意志の疎通なんてできません。もっとも親しい人との間でさえ、非言語的なものを含めてあらゆるコミュニケーション手段を駆使しても、やっぱりすれ違う経験ってみんなありますよね。
人間同士のコミュニケーションは完全じゃないんです。そのごく一部である言葉なんて不完全で当然です。
でも不完全だから無意味だ、とは全く思っていません。不完全だからこそ言葉でのコミュニケーションにはちからを注ぐべきです。
書きたいようになんか書けるわけがありません。でも書きたいように書けるという遠い目標に少しでも近づく努力は重要です。
とわたしは思っています。米光さんが文章をとらえている感覚は、(僭越ながら)わたしのこの立場と同じではないかと感じました。
その一方で、言葉だけで十分に意思疎通できることも日常ではよくあります。たとえば、会社の日常業務におけるコミュニケーションです。注意をはらえば、同じ文化圏の(=同じ会社や同じ職種など、職業のバックグラウンドを共有する)ひととは、ほぼ誤解のないコミュニケーションが、たとえばメールだけでも十分に行えます。出張報告や議事録でも、言葉は必要な役割を十二分に果たせます。
「必要なら文章は書ける」といっているひとは、こういうケースでの文章を思い浮かべているのではないでしょうか。このような条件での言葉は、確かに必要なら書けます。

書きたいように書けないのは努力が足りないからですか? どう思いますか?

「書きたいように書けないのは努力が足りない」とするひとは「書きたいように書けるわけない」と思っているひととは、言葉の使われ方についての前提が根本的に違うのではないでしょうか。だから、きっと、そもそも議論にならないんじゃないかなあ。