携帯電話による待ち合わせが簡単になったことによって、大切な何かが失われた、という話はよく見かける。

携帯電話の登場で待ち合わせは一変した。今となっては、それが無かった頃の待ち合わせをどうしていたのか、明確には思い出せない。その便利さによって失ったことがなにもないとは言わないけれど、その多くは種の偶然が発生しにくくなっただけの話で、本当に大切なものが失われたとはわたしには思えない。

携帯電話による常時遠隔コミュニケーションがごく普通にできるようになった一方で、50年前の「未来」にはあったのに、今でも実現されていないことはたくさんある。空飛ぶ車とか。テレパシーとか。雨に降られない生活とか。

わたしたちはいま、傘やレインコートのような物理的な障壁を用意して雨を防ぐしかない。外出しない場合は建物が物理障壁だし、車で出かけるのであれば車自体がそうだ。物体で雨を防ぐ以外の方法をいまだに人類は手にしていない。完全な気象制御による計画的な降雨や、空間を曲げて人間には雨が当たらないようにするとか、そういう世界はまだ実現していない。仮に完全な気象制御が実現されたとしたら、そのときわたしたちは何を失うだろうか。急な土砂降りで雨宿りに入ったお店が思いがけなく良かった、みたいな体験はなくなるかも知れない。携帯電話の場合と同じく、これまでの過程で起きていたことが起きなくなる、という形だ。

待ち合わせでのすれ違いも急な雨に降られて雨宿りすることも、過程で起きるトラブルだ。避けられるに越したことはない。トラブルに付随して、なにか良いことが起きる可能性は確かになくなるかもしれないけれど。

脳を直接刺激して酩酊状態になる方法が実用化されたとしたら、酒を飲まなくてもすぐ酔えるだろう。これは「便利」だろうか。たいていの場合、飲む過程はトラブルではない(トラブルがあるとしたら酩酊した後だ)。この場合は大事な過程が失われたように感じるだろう。少なくともわたしはそうだ。酩酊から一歩進んで、脳が幸せを感じる状態を即座に作れるとしたら。それはディストピアSFの典型例だ。良いわけがないみなされるだろう。

何かが便利になると多かれ少なかれ、今まで存在した過程のどこかが失われる。その過程に意味があり価値があるのか、それとも無いに越したことがないのか、というのがきっと「大切な何かが失われた」と感じるかどうかを分けるのだろう。そこには多分、はっきりした境界線は引けない。わたしは携帯電話によって待ち合わせから大事なものが失われたとは思わないけれど、それは単にわたしがそういう線を引いているからというだけの話なのかもしれない。

結果より過程が大事 「カルピス」と「冷めてしまったホットカルピス」 / 枡野浩一(『てのりくじら』より)