極東ブログ: 日本人が日本語など学ぶ必要はない

ブログとかに向いたくだらないテーマに「英語を学ぶ前にしっかりとした日本語を学べ」とかいうのがある。あまりのくだらなさに即終了でもいいように思うのだが、当方もくだらないブログなんでそんな雑談を。

極東ブログの中のひとはわたしなんかよりよっぽど明晰な切れ者で、わたしよりずっと日本語を上手に扱うひとだと思っています。そのひとがこんなことを言うとは驚きです。
わたしは母語をちゃんと扱えない人間が外国語を学んだってしょうがないといいたいです。なぜなら人間は母語で考えると信じているからです。
アメリカで出版されている英語の文法書を眺めると「英語を使うため」の文法書であることがよくわかります。学校で使ってた日本における日本語の文法書を読んでも、日本語の使い方はさっぱりわかりません。思想的にはアレですが、本田勝一氏の『日本語の作文技術』を読むほうがよっぽど日本語の使い方が分かります。
アメリカ人はしっかりとした英語の教育をされているが、日本人はちゃんと教育されていないのではないかと私は疑っています。教育の必要がない一部のセンスあるひとだけが、しっかりとした日本語を使ってしっかりとした思考をしています。その人たちの多くは、自分が「しっかりとした日本語をつかっている」という自覚がないのかも知れません。
(「日本語が論理的じゃない」とかいう俗説がはびこるのは、教育の不備によって「日本語を論理的に使えるひとが少ない」のが原因ではないかと思うことがあります)
証明は困難ですが、ひとは言葉で考えていると私は考えています。System.exit();のこの記事によればウィトゲンシュタインも言葉によらない思考である「私的言語」はありえないといっているそうです(虎の威をまごがりちゅう)。
日本人は日本語で考えます。だから日本語をしっかりと操れなくてはいけません。別に英語をしっかりと操れてもいいですが、とにかく思考の足場となる母語が必要です。日本に暮らしながら英語を母語とするのは難しいでしょうから、日本にいる日本人は日本語を選択するのが現実的でしょう。
(英語などの)外国語も日本語もコミュニケーションの道具です。母語である日本語は思考の道具でもあるのです。
とはいうものの「ひとが言葉で考えているかどうか」という証明も反証も困難(あるいは不可能)な問題への立場が根っこにあると思うから、同じ考えじゃないひとを納得させるのは無理なんだろうな。
と台無しにして、この論をしめくくります。
追記:
「ちゃんとした日本語」といったときに、過剰にウェットで装飾的で形容過多な日本語を思い浮かべる方がいるかもしれません。たとえばこんなんです。

都会の雑踏に疲れたわたしの頬を、ふと撫ぜた氷の女王の息吹のようなそよ風に、清冽な冬の静寂な訪れを予感した

いまわたしがでっちあげた文章なのでどっちにしても悪文ですが、こういう装飾を上手にすることはこの論でいう「ちゃんとした日本語」の範囲ではありません。また、わたしがでっちあげたこんな悪文ではない本当の「美文」レベルをここでいう「ちゃんとした日本語」に求めているわけでもありません。