日本は豊かな国だということになっていると思います。実際豊かだな、と思うこともあります。
たとえば食べ物。高級な肉が食べられるようになったとか、三ツ星のレストランがあるとか、そういう話じゃありません。美味しいものについての基準が、わたしが子供の頃と比べても、多様になってきたように思うのです。
以前テレビで、中国(だったと思います)のいち地方で、伝統的な製塩が危機にさらされている、という話題をやっていました。その塩はミネラル分などを含んでいて、少し赤茶けています。たしか岩塩だったと思います。それが、市場に持っていっても売れなくなっているというのです。街のひとたちは、白いさらさらの精製塩を好むようになって、こんな不純物がまざった塩はだれも買わない、ということでした。
日本もこういう段階を通ってきたのだろうけれども、今は「不純物」を含んだ塩が、ちょっと高い値段で売っていることもあります。不純物はいろいろで、海藻が混ざっているようなものもあります。海藻! 1970年代ならきっと、ゴミが混ざった塩扱いだったでしょう。今ではそういうのを好むひとたちがたくさんいて、商売になるのです。上述した中国の塩も、なんとかして日本で販売できるようにすれば、売れるかもしれません。
わたしは、豊かさの重要な一面は、便利さ・合理性・経済性などの「近代的」な価値基準のほかの価値も大事にされること、だと思っています。「近代的な価値基準」というのがどのようなものかうまく定義できませんが、「合理性」に代表されるようなものです(歴史方面でぴったりくる用語があるように思いますが、どなたか得意なかたたすけてください)。
が、最近、やっぱりまだまだ日本は豊かじゃない、「合理性」の価値観一本しかない面があるのかもしれないな、と思うことがありました。
うちのちかくに、「阿佐ヶ谷住宅」という団地があります。
50年前につくられた団地です。ゆるやかにカーブした道にかこまれた緑豊かな土地に、テラスハウスや4階建ての中層住宅が建ち、まんなかには大きな広場があります。整然としていない、自然なかんじに、あちこちに木が植えられています。50年も経っているのでいろいろな植物はすっかり馴染んでいて、桜や八重桜、かんきつ類等等、立派で堂々とした木がたくさんあって、花を咲かせたり実をつけたりしています。
しかし50年も経っているので、建物の老朽化が激しいそうで、再開発の話が随分まえからあったそうです。今年の夏から、その再開発がついに始まります。
この再開発では全部建て替えで、建物のレイアウトも今とは完全に異なります。「できるだけ木は移植して残す」とのことですが、今の時点で多くの木が伐られています。現代風の大規模な住宅になりそうです。
ここは分譲された私有地ですし、わたしには内情やこれまでの議論も分からないので批判するのも筋違いなのですが、50年かけて、都内ではめずらしいような穏やかな環境ができたのに、なぜ完全につくりかえるようなことをしてしまうのでしょうか。今のレイアウトのまま、建物だけ建て替える選択肢はなかったのでしょうか。私有地だから、どうしようが所有者の勝手だとはいえ、もったいない話です。
おそらく、今のレイアウトを残したままで建て替えると、かなり費用がかかり、しかも回収できないのだろうと思っています。今回の再開発では戸数が増えるそうで、それによって費用の回収もある程度できるのではないかと推測しています。もし自分が阿佐ヶ谷住宅の家を一戸持っていて、建て替えに際して

  1. 環境がこのまま保持されるが数千万かかる
  2. 環境を保持する努力はするが、多少変わってしまう。数千万かかるが、戸数がふえるぶんで回収できる

という選択肢を提示されたら、1.を選ぶ財力も度胸もないでしょう。そうい考えると、やっぱり批判なんかできません(この仮定自体が純粋な推測なので見当違いかもしれませんが)。
とはいえ、しかし。
先日、七分咲きの八重桜が派手に伐られたそうで、そのとき「もういらないんだから根元からきりたおしちゃえばいいのに」という会話を、住民の方がしていたそうです。
ほんとうにこの通りの発言がされたのであれば、野蛮で貧しくて、とても「豊かな国」のひととは思えません。植物はできるだけ移植して残す、という説明は、外に対するポーズに過ぎないのだろうと思えます。
上に書いたように、わたしはこの再開発を批判できる情報も持っていなければ、批判するような立場でもないのですが、この話にはがっかりしました。絶望的という言葉は強すぎるのですが、それに近い気持ちになりました。
そして、日本はまだ豊かじゃないのかもしれないな、と思いました。