今月刊行予定のミステリ長編『数学的にありえない』(アダム・ファウアー、矢口誠訳)のゲラを頂く機会がありました。
ハードカヴァー上下巻で600ページ以上ある本です。ゲラというものをはじめてみましたが、裁断前のイメージが見開きに印刷されているA3の束で、ものすごく読みにくい形態です。それが600ページ分あるんです。受け取ったときはどうなることかと思いました。せっかくもらったんだから、読まなきゃ悪いしなあ。
結論からいうと物理的な読みにくさが全く気にならない、ページをめくる手をとめさせない、すばらしいエンターテイメントでしたよ。読みやすさとスピード感から一気に読み切りました。
そういうわけで皆様に売り込むための文章を書いてみようかと思います。
売り込みの基本はまず、商品の欠点を明らかにするところからです。ですが、この本の欠点は探すのが難しいです。敢えていえば、SF読みのひとは不満を感じるかもしれないところでしょうか。
この本にはある趣向があるのですが、その趣向に関する細部がSF読みからみるとちょっと物足りません。SF的には詰めが甘すぎるところもあります。読みながら、こころのなかで、それはちがうよブラザー! って叫びました。
でも、この本はSFではありません。SF的な道具立ては確かにあるのですが、それはあくまでもストーリーを組み立てるための道具のひとつにすぎません。SFを普段よく読む読者は、この本はSFじゃないSFじゃないSFじゃない、って呪文を唱えてから読んだ方が楽しめるでしょう。
欠点は以上。というかSFじゃないので、そもそも欠点とはいえないでしょうね。
では、つぎにこの本のよさ。それは、一にも二にも「読むのをとめられない」ところです。わたしにとって、読むのをとめられなかった理由はなんだろう、と考えてみました。
物語は、一見無関係な複数のことが語られるところからはじまります。
ギャンブル狂の元統計学教師が、ロシアマフィアの賭場でトランプ賭博をしています。彼は天才的な暗算能力を駆使し、確実に勝てる手で大きな勝負に出ます。しかし、確率的にはほぼありえないのに彼はその勝負に敗れてマフィアに大きな借金をこしらえてしまいます。CIAの裏切り者の殺し屋が、淡々と情報を北朝鮮に売るはずが、トラブルを起こして追われる羽目になります。ぱっとしないもてない男が、何年も同じ数字で賭け続けてきたくじをついにあて、巨額の賞金を手にします。国家予算で運営される研究所のやり手の所長が、長年の不正行為から解任されそうになっています。彼は解任される前に、これから化けて金になる研究をさぐりあてて持ちだそうとしています。いっぽうで大学院生の愛人を実験台に禁断の研究をしている教授がいます。
これらの話が絡み合って徐々に関係が明らかになり、そして物語はころがっていきます。
こういう複数の視点で進む物語はたいてい構造が複雑で、たとえ物語がおもしろくても、なかなかページをめくる手はすすまないものです。あれ、これはさっきの誰と関係あるんだっけ。
この本では、まず目次の前に、1ページぶんくらいの「引用」がふたつあります。ひとつは微小確率のはなし。起こりうる確率が非常に低いものは、確率の計算通りにはおこらない。何がどうなるかなんてわからない。そしてもうひとつは、癲癇の話。実は癲癇というのはなんだかよくわかっていない病気なんだよ! という主張。
この一見関係のないふたつの引用は、これからはじまる物語にむけて、読者のあたまを準備させるためのものなのんです。上巻ではこのような引用が何カ所かにあります。本当の引用もあれば、実は著者の創作を引用風に語っているのもありますが、いずれも、実はその直後の物語への準備を直接的に担っています。
冒頭では先の引用のあとに元統計学の教師であるケインが参加する緊迫した賭博のシーンにいきなり入りますが、ちょっとした躊躇のあとに簡単に話にはいれるのは、計算されたこの「引用」によるものが大きいと感じました。
これは一例にすぎません。この本は、複雑な話をまとめあげるだけの物語の力がもともとある上に、読者を離さないように引き込むようにするための工夫を惜しんでいないのです。その上、訳文が巧みで読みやすいのです。だから、私はページをめくる手が止められなかったのだろうと思います。もちろん、読んでいる間は上記のようなことはほとんど意識的には感じず、ただただ物語にひきこまれました。
600ページもありますが、夜を徹して読める危険な本です。
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